昭和44年07月19日 朝の御理解



 御理解 第34節
 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 これはもう説明がない、説明いらないほどに、まぁ行き届いて説いてございますですね。もうこの通りでございますね。例えばこういう風にみやすう説いてあっても私共は分からない。どうも信心音痴と言った様なこつ。何べん習うても何べん習うても分からない。2、3日前でした、一時の御祈念終わって勝手へ入りましたら、高橋さんが裸になってこう汗ぶるぶる拭いておられますもん。どうしたですかち言って。
 今からあの機械室に入ってから、あれせにゃならん。初めて私はあの機械室ってのに入りました。もうそれこそ沢山な機械の何かが一杯ある。もう私それ見とっただけで頭じゃ痛くなってからもうすぐ出て来ました。もう私は機械音痴ですねやっぱり。とにかくまぁだテレビがようと、本当に自分では分からんのです。ただこれとこれをこう押しゃ画面がその映るだけは分かったけども、それがこうこうチラチラしたり、これがこう曲ったりすんならどれを大きくしたら声が大きくなるのか。
 どうしたらその綺麗な画面になるのか。まぁどげん習うても分からん。また本気で習おうとも思ってないからかも知れません。けれども確かにあのう機械に弱い、機械に弱いという事は、その機械室に入っただけで頭が痛くなりよる。ところが高橋さんが言うておられますのに、好きな者が入るとですね、これば見るとが楽しみち言う。機械にはもうえいじゅうもんじにどかしとる。好きな者が見るとそれは楽しいち言う、意欲が湧いて来る。杉山さんやら高橋さんあたりはやっぱそうでしょう。
 そうだろうとこう思うんですね。ですから私共がそのうおかげを受けきらんのは、結局一つのまぁ信心音痴ですよ。けれどもでもないけれどもですね、いわゆる私が機械力に対してから、その本当に感心を見せないように。本気で覚えようと全然思うていないからかも知れん。ほんなこつならテレビぐらい、またこの頃から今年には最新型の扇風機のお供えを頂いておる。もうこれがまた全然私がしたっちゃ回んとです。他の者がするとすぐ回うとです。こげん簡単な事ばち言うけども私には分からん。
 もうどうもそのうやっぱり何年前かとならば動かしきるけども、新しいのでは実際物のように致さない。却ってそのそれだけ新しく立派になっておる筈のですから、それを使い道を覚えさえすればいいのだけれども、覚えようとしないのかも知れないけれども、確かにやはり機械に私が弱い。お互い信心させて頂いておるですけどね、あの神の言う通りにする者が少ないと仰る。第一もう言う通りにしようと思っていないんだ。いわゆるお参りはしておるお願いはして帰って来るけれども。
 そんなら帰りに頂いて帰るその御教えをね。本当にはぁそうだそうすりゃおかげを頂ける、こうすりゃおかげを受けられるという事をです、本気でそれを頂こうとしていない、ね。または聞いておっても、「神の言う事は道に落としてしまい、わが勝手にして神を恨むような者がある」と。そこで私は思わせてもらうんですけれどもね。まぁせめてそのうお医者さんに行った積り位な気持ちになると、おかげは受けられると思うんですね。お医者さんに参りますと診察を受けます。
 はぁこれは貴方あんまり動いちゃいかんですよ、安静が必要ですと言われたら、やはりすぐに皆んなが安静になろうと努めるでしょう。これは食前に又は食後に、ちっと苦いですけども辛抱して飲みなさいと言うて、薬を出されますと必ずお医者さんの言われた通りに、その薬をたとえ苦かってもそれをやっぱり飲みます。忘れとってもあらぁ忘れとったと言うてからその飲む。病気が治りたいと思うなら、やはりお医者さんにかかってお医者さんの言う通りに、実行しなかったら病気が治らない。
 はぁこれは貴方食べ物ばちっと慎みなさらにゃ。まぁ三杯食べようと二杯ぐらいにしなさい、酒は飲んじゃいけませんよ、甘い物は食べちゃいけませんよと、まぁ言われたらそれを実行しなければ、お医者さんの手立てと、やはり治してもらいたいという一心とが、一緒になっていわば全快のおかげになるのですけれども。それをしないならば、やはりお医者さんの手立ての施しようもなくなってくる。あぁ貴方昨日動きなさったですばいなち、すぐ分かる動いたら。
 もうそれじゃいかんと言われりゃ、やっぱり言われたようにさせてもらわなればね、いけませんように。せめて私共はねお医者さん、病気の時に医者にかかって、医者が言うた通りの事をいわば実行するぐらいな気持ちをですね、信心の上に寄せたら本当におかげが受けられるのになと私は思うです。どうでしょうか。第一そのう「神の言う通りにする者は少ない。皆帰ってから自分の良いようにする」と。この辺のところがね。いっちょんお医者さんの言いなさった通りには実行しよらん。
 神の言う事は水に落としてしまい。えっとお願いだけはしてきた、切実にだからお願いして来たけれども。帰りがけに神様は言うて下さった事は、えっとどげな事っじゃったよち言うちから忘れてしもうとる。やはり道に落としてしまい、勝手にしておかげをよう頂かん。私は今日御神前で御祈念させてもらいよりましたら、私のその控えが薄暗いんですあの控えが。それであのこう突き上げ窓がありましょう。こう開けますと向こうは突き上げになってます。あの窓をこう突き上げておる所を御心眼に頂いたんです。
 そしたら部屋に明かりがスーッと入って、部屋が明るうなったと言う様なお知らせだった。毎日毎日がもう本当に暗穏の毎日を送っておる。毎日暗い心で過ごしておる。何とか朗らかになりたい明るくなりたい。そこでお参りをして来る。それはあなた帰ったら窓を開けなさいとこうね、例えば言われておってもです、その窓一つ自分で開けようとしない、ただ腕こまねいて、どうしてこんなに暗い思いをしなければ、ならんのであろうかと言うておるだけでね。私は明るくなる筈はないと思う。
 だから実行という事はたったそのくらいな事なんですよ。どうしてこんなに暗い思いをしなければならんのだろうか。私達はどうしてと悲観をしたり悲しんだりしておる。窓を開けなさい窓が付いてるんだから窓を開けなさいと。そんなお知らせを頂いて、今日はこの34節を頂いた。だからもう本当にここではもう説明の用はない位。この御教えに全部が言うならおかげを頂いて行くコツ、お徳を受けていくコツというものを、ここにもうそのままのお言葉をそのまま頂いて、良い様に平易に分かりやすく説いてある。
 それをまた噛んで含めるようにこうして御理解させて貰う。もう分かってる筈の所をもう一遍言う。例えば私の機械力の説明のようなもんだ。これはお父さんこげんしなさったっちゃ付きゃせんですよち。ここば捻りなさると却って悪かですよち。こんなに子供でも分かる様な、例えばテレビの事は私には分からない。教えられても教えられても分からない、ようなもんじゃないでしょうかね。私は以前よう言いよりましたよね、お月次祭で。とにかく貴方お月次祭が8時からという事は分かっとるとじゃけん貴方。
 一里のとこを歩いて来るならば、一時間前に7時に出らなければ、8時ち言う事は分かっとるとじゃない。そげな事っじゃおかげ頂かれんですよち私が言いよるでしょうが。それを平気で聞いとる訳です。そしてもう夕べなんかはもうお祭の済む間はガラ―っとしとったでしょう。さぁお祭が済んだ頃から一杯になってしまった。本当にだいたい何しげ、夕涼み来ござるとじゃろうかち思うた。神の言う事を全然聞こうと思うていない。このように簡単な事が出来ない。
 それでいていくら参ったっちゃ同じ事ばの、おかげを頂ききらじゃったちいうごたる事を、言うという事はいわばね。神の言う事は道に落としてしまい、勝手にして神を恨むような者があるという事になるのじゃないでえしょうかね。これは自分が「ほっ」はあこれは自分の信心音痴だなぁと。昨夜遅う秋永先生と控えでお互い話した事でした。今合楽に本当に大した事を頂いておる。皆がそれを書き写したり、まぁ頂いたりして帰っておるけれども、どれだけ分かって行きよるだろうか。
 それを頂いてこなして、本当におかげを受けて行かなければ、折角合楽でこれだけの事を頂いておるそれをですね。世の中の多くの人達に、これを見て下さいと言う事すら言えんのだ。どんなに素晴らしい事を聞いても、例えば書き写して行っても。昨日私、「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」という、一時の御理解解釈に最後のところにそれこそ、もう名実共に日本一と言われる、先生方二人の例を取り入って、説明を致しておりますですね。湯川先生とそれから甘木の初代安武先生の。
 いわゆる大真理の喝破という事について、私は二人の先生方の例を引いて出して、そして私はかく喝破した私はかく悟ったという事を書いておる。もしだからこれを多くの例えばお道の信奉者の巧者な方達が見たら、はぁ大坪って奴はもう本当にもう思い上がりもええとこだと。丸きり日本一の先生方のと同等に自分というものをしておる、考えておるとじゃろうかと言うて、皆んなが笑う事でしょうねって言うて、私は秋永先生に言いましたら。親先生そりゃあ貴方があんまり卑下しとなさるけんですよち。
 とても今合楽で頂きよる事は、その二人の先生方が説き得られなかったところを説いとるりよんなさるじゃないですかち。こういう素晴らしい事を私共は頂きよるとですよ。そりゃ先生は貴方卑下しとりなさるですよち。私は秋永先生に言われたんですけれども。また言われてみらんにしても、実を言うたら私もそう感じておるんです。大変な事だと。いわゆる本当の本当の事をどのように噛んで含める様に教えてもです、それが行の上に現されなかったら同んなじです。
 お医者さんにばっかり通うたっちゃ、お医者さんの言う通りは一つもせん。薬は苦かけんち言うて飲まん。それではお医者さんの手立ての施しようもあんなさるまいようにです。その証拠にはなら皆んなに求めてもです、分からん所すらが分からんじゃないか。ここの所を一つ説明しなさいと言うてもです、実際は出来ないじゃないか、これだけの勉強をさせてもらいながら、これだけの事を教えて頂きながら。まぁそんな事を昨日秋永先生と話した事ですね。
 だからどういう素晴らしいお薬を頂いても、それを飲まずに放ったらかしておったんではです。皆さんそして書き写しておられるという事は、いつかお役に立つ事だけは間違いないと私は思いますけれども。それが本当に頂かれなければ、飲まれなければおかげにならん。神の一言は千両の金にも変えられぬ。有り難くうけて帰れば土産は船にも車にも積めぬほどの神徳がある。そういうようなものを、どうして私共が行じられないのかと。どうしてその事を、私共はただ聞くだけにしてしまうのか。どうして窓を開けなさい開けなさいと言われて、素直に開ける気にならんのであろうかと。
 だからそこんところを今日はですね。心の内を改める事が第一なりと。神に一心とは迷いのない事ぞと最後にこう下さって。ここんところがですねなされない所に私はですね、やはり今までの自分信心のなかった時分の間の自分であるから、一つもいわばその性質と言うか、その姓という物が変わらんのではなかろうかと。はいそこを開けなさいと言われたら、ハイと言うて開けるような素直さがないのじゃなかろうかと。さぁちった苦いけど辛抱して飲みなさい。
 安静にしとかにゃいけんですよとお医者さんが言われてです、それをハイと言えない、いわば物がです、あるからなんだという事です。そこに一番最後に。こういう素晴らしい事をですね、それが神に不足を言うような、いくら参ってもおかげを頂けんようなのは、こういう訳なんだから、頂けないのは、道に落としてしもうたりね、神の言う事を聞かずに自分勝手にして神を恨むようなのは結局、心の内を改める事が第一なりと言う様な所に焦点を置いていないからだと。自分の心の言うなら垢まみれの心のままで、ただ聞いておるからなんだと。洗脳をしなければいけんね、頭の入れ替えをしなきゃいけん、心の入れ替れをせにゃいけんね。神に一心とは迷いのない事ぞと、神に一心とは迷いのない事だ。お医者さんにかかっておる。どうもこのお医者さんにゃ心もとない。はぁまた次のお医者さんに。また次の薬を飲みよる。まぁあらゆる手立てをしてみる。これではやはり、私、お医者さんも勢がなかろうと、こう思う。
 自分でいけんものならです、これは私じゃとても手には負えんから、どこどこ病院に行って見てくださいと、専門の病院に行ってみて下さいと言われる筈なんです、人命に関わる事ですから。それをこっちがいわば疑うて迷い散らかしたんではおかげにならん。やっぱり一心と定めておかげを頂かなければならん。何と言うても心の内を改める事第一なり。ここんところからです私は又これを今度は逆さまに、こう読んで見たらいいね。そして神の言う事は千両にも変えられない物であるという体験。
頂いて帰った事は自分一人じゃ勿体無い。お互いが一つ拡声器代わりになれと言う様な御理解を頂いた事があった。自分一人で頂いとったっちゃ勿体無い。この素晴らしい事、この言うなら有り難い、いわゆる本当な事をね。自分に縁のある方達にいわゆる自分が拡声器代わりになって吹聴して回ろう。吹聴ち言うとおかしいですが。お話を聞いてもらおうという思うても。今日はお母さんどげな御理解じゃったのち言うと。私も有り難かったと言うだけでん、有り難かっただけじゃ分からん。
 どげな御理解じゃったのっちゃそりゃ忘れたち。ただ有り難かっただけだったね。本当にちょいと滑稽な話である。お芝居を見げ行ったように。はぁ面白かったち帰ったけん、どげなお芝居じゃったのち、なぁにもう今日はもう弁慶が切った切ったち言うた。はっはっは。お芝居を見げ行ってから眠っとった訳です。それでもう今日もちょいと、もう弁慶が切った切ったち言うちから言うたち笑い話。ただ有り難かったちゅうのはそれでのような物じゃないでしょうか。
 ただ芝居小屋の雰囲気を感じて来ただけじゃないでしょうか。本気ではぁ今日の頂き所は全部と言いたいけれども、ここだけはと言う様な所をです頂いて帰る。しかもそのここだけはと言うた所がです、いわばまた信心の巧者の人に聞いてみてです。本当の今日の頂き所、本当の今日は親先生のお話下さった、あの話の焦点になるいわゆる大義になる所は、大体何処だったでしょうかととそれに聞いてみて、自分が思うたとがピタッと合ったら、はぁ自分も大分信心が向上したなと楽しゅうなって来る様なね。
 そういう信心の共励とか練り合いとかするなら、そういうところを一つおかげ頂かにゃいけない。最近は各会合でその日の朝の御理解を、まぁテーマに色々信心の共励が進められておるという事でございますけれどもね。本当に結構な事だと思うんです。本当にそれが自分の物にならせてもろうて、それを自分が本気で行じさせてもらう。そういう努力と、それからそれを素直に受けられない、いわば改まらな改まりの足りない所を、ひとつ本気で気付かせてもろうて。
 心の内を改める事がこういうおかげを頂く為には、先ず心の内を改める事が第一である。一心神に一心とは迷いのない事。それを昨日は一時の御祈念に、一心に信心と説明しておられますね。一心に信心とは一心の真心と書いてある。昨日皆さんが塗板に書いてあるのを見ておる。一心の信心とは一心の真心と書いてあるね。不乱の信心、不乱ということは乱れない。まぁいわゆる迷わないとその信心ですけども、その信心を字を変えて書いてあるでしょうが。
 どうしてここに字はこんな風に書いちゃるじゃろうかと、一遍不思議に思わにゃいけんです。ただ一心不乱に一心不乱にと言うただけじゃいかんちいう事。一心の真心、一心の信心一心の信心、一心不乱の信心。という風に説明がしてある。もう一字一角にでもですそういう一つの意味があるんですよ、御神意この御理解には。こういう簡単な事ですら神様の言うて下さる事を行じられない。そんなに暗いなら暗い思いをしておるよりね、帰ったらここの窓をこう開けなさいよと。
 言われておってもそれを窓を開けようともしないで。唯腕こまねいてどうしてこんな暗い思いをしなければならんだろうかと、言うておるような信心が続けられたんじゃ駄目です。そこの手立てをさせてもらう事を、ひとつ本気で思わなければね。本当にこんな簡単な事がどうして出来んのという、その簡単な事が出来ん。月次祭は8時からですよて。さぁ月次祭に間に合うとる人は、まぁ15人か20人ね。そうしておかげが受けられんと言うて神を恨むような者がある。
 もう本当にもう片っ端からね、もう自分ですぐ行じようと思えばすぐ行じられる事。これをですね本当に改めなければ嘘ですよ。私はある時ここで椛目の時代でした。こげな反古紙がありましたから。まあ反古紙に大体自分が身につけておるという、教祖様の御教え、神誡神訓、御理解の中から、どう言う様な事を自分に身につけておるだろうかと思うて、思い出しきる程ずうっと書いた。本当に以前の私ですね。それこそ一か条だって、自分の物になっていなかった。
 どうしてこげなみやすい事を守っ守れなかっただろうかと、自分で思うくらいであった。思うくらいだった、それでおかげを頂きたいという気持ちは、人よりもやっぱ強かった事はもちろん。それがだんだん神様の言う事に耳を傾けさせて頂くようにならせて頂いたら、ほんでも何ぁんにも折れるこっちゃないて。例えて言うならば御地内をみだりに汚すなよなんて言う様な御教えなんかは、もうその気になったら誰だって出来る事なんだね。お月次祭は8時ですよと。
 8時に間に合わんごたる事でどうするですかと言われたら、これに間に合うような事は、もう全然問題じゃないほどにみやすい事を、平気で遅らかしておるでしょうが。そしておかげが遅れるおかげが頂かれ2、何時まっでんち言うと。もうちょいとおかしかもんね。医者の言う通りにいっちょんしよらん。とても苦いけんでこれは飲まれん。もうとてもそれは人間では出来るこっちゃなか、ちいうごたる難しい事言われるならいざ知らずだけれども。そういう簡単な事一つ行じられずしてです。
 私はあの時になら十か条でしたでしょうか。自分ではぁこれだけは身についておるなと思うたのはずっと書いて、書き終わった時にちょうど茂さんがやって来た、久保山茂さんが。だからこれは今教祖の御教えも百何十か条の中には、これだけはこげん簡単な簡単に行じられる事よ。だからもう御理解、神訓、神誡。もう私が思い出し切りだしのじゃけん、もうそのういきなり書いたんです。だからちった言葉の違うところもあるかも知れんけども書いた。だから茂さんこれアンタにあげようち言うて。
 まぁ反古紙に書いたのを私があげました。したらその次の宅祭り行ったら、それがもう見事な額に入れてある。御神前の横にこうやってその額が上がっとるです、反古紙に書いちゃる。ある時四神様が仰った。御神誡十二か条をちょっと書いて額に上げてね。お広前の一番見やすいところにちゃんと上げとりますち言うて、四神様に申し上げた時に四神様が仰った。あれは見るもんじゃない。一つひとつそれが実行が出来るようになったら消して行くもんじゃと仰ったそうです。
 自分の物になったらもう消して行くもんじゃち言うて。茂さんにもやっぱそういう意味の事を、私その時に言うたと思う。これは見る物でも眺める物でもない。実を言うたらこれはもうひとつ一つ消して行くもんだと。しかもこのように簡単に出来る事なんだ、これはそう思うたら。だからこれはもう簡単に行じられる御教えだけを書いたつよち、言うてそして私その時分にそれを言いましたから、誰でんそれをすぐ書き写して。
 書き写しとる人達がいくらもありましょうと。けれども果たしてそれが皆さんの物になっておるだろうか、と思うのですよね。この34節はもうここに読ませて頂くその通り。もう説明もいらんようになるのだけれども、今日私がまた頂きますとですと、いわゆるね。暗い暗いと言わずに窓を開けたら明るうなる。熱い熱いと言わずに窓を開けたら涼しゅうなる。その窓も開けようともしないで。
 暗い熱いと言うておるのでは、始まらんではないかと言う様に、また医者の例を取りました。やはりこういうみやすう説いてある。それをまた噛んで含める様に、このように頂いてそこんところは行じられないのは、私共がです。改まる事が第一であるというその改まって行くということ。それはみやすい所からひとつ改まった行こうじゃないかと。例えば自分は時間の厳守が出けない。そこにひとつ本気で取り組んで。
 自分がその気になりゃあ出ける事だから、時間の厳守だけは、他の事は出けんけれども、これだけは自分の物になったと言う様にです。御地内をみだりに汚すなよと仰るから、以来私は御地内を汚した事はありませんと言う様にです。そこんところを自分の物にして行くところのおかげを頂く時に、初めてその神の一言がです、千両にも変えられぬ、船にも車にも積めぬほどの、神徳になって来るという風に思うのですよね。
   どうぞ。